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■麺機いまむかし

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第1話 麺の歴史

現在、麺と呼ばれている食品は、そば、うどん、中華めん、即席めん、カップめん、マカロニ、スパゲッティ、米粉めんなどから、形態は変わるが餃子、焼売の皮に至るまで多数の品種がある。このうち最も古く現れたのが、うどん、そうめん、そばの類と言われている。奈良時代に中国から渡来した唐菓子に、こんとんや索餅(さくへい)というものがあり、これがうどんとそうめんの源流だというのが通説となっている。

 こんとんとは、混沌あるいは食偏に「昆」「屯」と書き、小麦粉をこねて団子のかたちにつくり、中にあんを入れて煮たものだった。現在のうどんとは異なり饅頭の一種に似たものだったようだ。やがて、平安、鎌倉時代を経て、食文化も大陸との交流が盛んになるに従い、様々の工夫が加えられ発展していった。
 室町時代の日記類に饂飩(うんどん)、うとんの言葉が現れている。小麦粉でつくっためんを細かく切って煮て食べたことから切りめん、切麦とも呼ばれ、饂飩はすでに現在のうどんと同じ製法がとられていたことがわかる。これが江戸時代のうどんへとつながっていった。切りめんを冷やして食べるのをひやむぎと呼んでいたとも考えられており、それが後に、細い切りめんのことをひやむぎと呼ぶようになったとも言われている。

 一方、索餅(さくへい)は、小麦粉と米の粉を練り、それを縄のような形にねじった食品であると考えられている。また、語源の上でも、索餅が索麺(さくめん)、素麺(そうめん)と変化したとするのが定説となっており、索餅がそうめんの原型と言われている。
 中国から渡来した当時の索餅が具体的にはどのようなものであったかについては意見が分かれており、唐菓子の一種であったという説と、めんに近いものであったという説があるが、めんとしてはかなり太いものであったようだ。
 室町時代には、そうめんについて索餅、索麺、素麺の三つの名称が使われ、とくに素麺という言葉がこのころに普及したとみられる。索餅に代わって、そうめんという名称が登場したのには、現在のように小麦粉と塩を原料として生地を練り、油を塗りながらめんを延ばしていく手延べのような新しい製法が確立されたからだろうと考えられている。そうめんの製造がかなり高度の熟練を必要としていることから、専門職化し、商品の流通が行われていったと見られる。現在そうめんの名産地として名高い三輪、播州などのめんづくりは、この室町後期から江戸初期の時代に始められたようである。

 そばの歴史も古いが、当初は脱穀したそばの実をおじやのように煮たり、飯のように炊いて「そば飯」「そば米」として、粒食するのが主流だった。その後、中国との文化交流が盛んに行われ、製粉技術が進歩して粉食が可能になり、その利用範囲もどんどん拡がっていったようだ。最初のうちは粉を練って団子にし、焼いたり、そばがきにして食べていたのだろうが、その後食べ方に様々な工夫が加えられ、そば粉を練って延ばし、細く切って食べるようになった。これを「そば切り」といったが、いつ頃これが始まったのかは定かではない。
 そば切りが一般に普及したのは、江戸時代に間違いないようで、幕末には今のようにそばめんを単に「そば」というようになったようだ。
 そば切りが普及するようになったのは、寛永年間(1624〜44年)につなぎとして小麦粉を使用する手法が朝鮮僧・元珍によってもたらされてからのことであるとされている。それまでは、つなぎなしの生そばが主流で、めんに加工するのが難しかったのである。その他にも、全国から江戸に人が入るようになり、大勢の人の食事を賄うために簡単に腹ごしらえのできるうどんやそばなどを売る飲食店のようなものが軒を並べるようになったためともいえるだろう。当初はうどん屋が主流であったが、淡白な味を好む江戸っ子にはそばの方が性にあったらしくうどんを凌いでそばが愛好されるようになり、うどん屋からそば屋へと名称が変わっていったようである。
 そばは、こうして江戸の庶民生活に欠かせない食べ物として根をおろし、文化・文政(1804〜30年)ころには江戸の生活に密着した存在となった。

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