明治時代、今までの家内工業から工場生産方式への転換が都会を中心に展開され、高能率を図るために様々な業種で機械が使われ始めた。
製麺もその類にもれず機械化に向け本格的な研究が始まった。
最初に製麺機を考案したのは、佐賀県出身の真崎照郷であった。彼は現在でも我が国麺機業界の祖と呼ばれている。彼はまず、木製の木綿糸繰機をヒントに、綿繰機が綿実を繰り出す時に使用するロールを応用することを考えた。小麦粉をこねたものをロールの間を通過させ、紙状に薄く延ばしたものを細かく糸状に切断して麺線にするというもので、これは現在使用されている製麺機の基礎となっている。
度重なる失敗と試行錯誤の後、明治16年春に製麺機第1号がついに完成する。この真崎照郷の発明はその後、明治21年3月30日正式に特許が交付され、それに刺激されて全国各地で製麺機械に対する関心が急激に高まり、新規製麺機の特許申請が相次いで行われた。しかし、これがすべて実用化されたわけではなく、研究開発が主であった。そして、当初の製麺機は価格が高く、はずみ車を使った手回し式で、動かすのにかなりの重労働を必要としたため、普及には時間がかかったようである。
大正時代、戦時景気の好況で消費生活が活発となり、購買力が倍増した。従来の生産方式では到底激増する需要を賄うことが不可能になり、ここにきて製麺機械が実用化されるようになってきた。
また、農村の労働力が都会の工場に流れ込んできたことによる消費形態の変化も起こっていた。農村において麺はほとんど自家消費を目的に自家製麺されてきたが、都会では商品として売られている場合が多かった。そのため、生産もこのような消費を対象に工場生産されてることが多くなり、作業の合理化、量産化を図るために機械化が進められることになった。
このように、明治時代に真崎照郷によって開発された製麺機は、大正時代に一般に普及していったことになる。さらに昭和に入るとモーターが発売され、それによって製麺機械も手動式に動力が利用されるようになり、全国へと普及していくことになった。